色彩は「もう一つの心の言葉」です。 色は私たちの感情や記憶と深くむすびつきながら日々を豊かに彩り、心身に様々な作用を及ぼしています。色を使った表現を通して心を元気にしたり自分らしさを育てたりするアートセラピーを社会に活かしていきたいと思っています。

工作7割、工作大好き

アトリエは基本自由です。
だから絵を描いても工作しても折り紙してても、写し絵でも粘土でも木工作でも何でもどうぞ!

とにかく子どもたちは工作が好き。
みんなの様子を見ていると、工作ばっかりするという子がだいたい6、7割でしょうか。
あとの、3、4割は絵と工作を行ったり来たり
どちらかというと絵の方が多いかなという子はほんの1割程度。そんな感じです。

だから4、5人のクラスで、みんな違う工作をしていて、あっちからもこっちからも「手伝ってコール」が絶えない時、たいへんでたいへんで千手観音みたいに手がいっぱいあったらいいのに、と思います。

子どもたちはこちらが何か言う前に、まずはどんどん自分で試すので、危険なことは回避しなければなりません。アトリエにはカッターや針金千枚通し、ホットボンドなど危ない道具もけっこうあります。

だから絵と違って、小さい子ほどどうしてもお手伝いが必要になります。

できるだけうまくいくよう、道具の使い方を見せたり、ちょっとおさえててあげたり、糊つけを手伝ったり。失敗することも大事ですが、作りたいイメージを実現することで得る喜びも大きいので、そこは大人の知恵と経験でカバーします。

「それではくっつかないよ。こっちのボンド使って」
「君、カッターナイフの使い方アブナイ、恐いよ!」
「そんな太いワイヤー、ハサミで切らない!」
「ホットボンド床におかないで!」
とまあ、てんやわんやです。

アトリエをやってます、というと「あら、いいわねえ。子どもたちと一緒に絵を描いたりするの?」なんていわれることもあるけどいえいえそうではありません。子どもたちへの注意力とエネルギーがかなりいります。

アトリエを運営する私の友人のひとりは、成人した娘さんが手伝うようになって「やっとお絵描き教室から工作もできるようになった」といってました。そのくらい大人の手が必要で、それくらい子どもは工作が好きなのです。


情報化社会となりますます手指を使ったり身体を動かしたりすることが減るなかで、この子ども時代の工作体験というのは本当に大事だと思います。

触る、切る、ちぎる、ねる、結ぶ、貼りつける、塗る、それらの感覚を全開にしての造形は、「自分で選び、自分でできる」体験として蓄積されます。それらは物を調べたり人と会ったり、文章を書いたりすることにも、きっと力となってくれるでしょう。
数字ではあらわせない人の心の栄養となって、将来の豊かな人生をデザインしていく原動力になると思うのです。


ちなみに私の子ども時代はというと絵は好きでしたがほぼマンガ。少女マンガ、バレエ漫画はもちろん「巨人の星」や「明日のジョー」も熱心に模写していました。それから手芸やお菓子作りをそうとうやっていたのでそれが工作代わりかな。とにかく手を動かしているのが好きでした。
いわゆる風景や人物などを描き始めたのは高校に入ってからでした。

いつの時代も、子どもの頃の工作は自分を育てるために必要な栄養素のようなもの。子どもは本能的に知ってて必要だからやってるのです。

ちっとも絵を描かないといって心配することはありません。ひとりひとりのペースで時期がくれば必ず描き始めます。
また子どもによっては他の分野で才能を伸ばしていくことが始まるのです。

だからそれまでは私も我慢しつつ、工作を心から応援し、お手伝いしようと思います。





「おおすなあらしおしたおしおきのうみ」と書いてあります。
  


  • 決まってんのになぜ聞くの?

    今日は爽やかな秋の空が広がっています。運動会シーズンですね。
    アトリエの子どもたちも、今年はシルバーウィークのせいで普段の半分くらいしか練習できないと心配してたけど、無事おわったかな?

    スポーツ、そして芸術の秋です。

    アトリエでもいろいろなものが制作されていますが、子どもたちから色や材料について相談されることがよくあります。

    そんな時は例をあげたりしながら、ちょっとアドバイスしておくと、、最後は必ず本人の好きな色やモチーフなどを選んでくれます。
    それは私にとっても、一緒になにか作る喜びがあってうれしいものです。

    ところが、そういうやりとりとはちょっと違って、すでに答えは決まっているのになぜか聞いてくる低学年の女の子がいます。

    「ねえ先生、赤い紙と>黄色い紙どっち貼ったらいい?」
    で、
    「う~ん、黄色の方が合うかなあ…」
    というと、
    「え?・・・、 やっぱりでしょ!」
    (ああ、決まってたのね)
    という具合。

    「先生、大きい箱長い箱とどっち使ったらいい?」
    「パズル作るなら大きい方かな」
    「ありえない! 長い方でしょ!」
    (ああ、そうなのね)

    、どっちの色画用紙がいいと思う?」
    「黒!」
    「マジ? に決まってるし」

    なんなの、じゃあ決まってんのになんでわざわざ聞くの!とおもわず言いたくなる会話です。


    たしかに二つの物や色のあいだに「どっちがいいかな?」と迷う気持がないわけではありません。
    だから聞いてみたくなるわけで。

    しかも私の意見と本人の意見が違う方がだんぜん嬉しそうで、なぜか元気な感じ。

    つまり迷っていながらも実はほぼ決まってて、私が反対の方を言うことでより自分の気持が高まるということなのですね。
    なにか、その葛藤を楽しみながら気持を強化してるみたいな感じです。

    私に聞いているのではなく、無意識の意識で自分自身にプラスの動機づけになるように聞いている感じ。

    だから決定するには「私はこっち!」という気持の高まりが必要なのですから、たまたま意見が一致したときなど、むしろ不満そうです。

    「ここ何色に塗ったらいい?薄紫どっちがいい?」
    薄紫のほうがキレイかな」
    (めずらしく意見が一致した)
    「・・・・・・、そうだよ・・・・、あたりまえじゃんicon15」(ちょっと不満そうな様子)
    (あ・・・(ーー;)せっかく同じだったのに喜んでほしいなあ))


    疲れるからと「どうせ決まっているんでしょう。もう聞かないでよ」なんていいかげんに対応したら大変です。
    ねえ、ねえ、ねえ、ねえ、といつまでも質問攻めになります。

    だから同じだろうが反対だろうが答えねばなりません。
    答えはきまっているのに。
    いえ、決めてあげるために。

    せめて、同じ意見だった時は「わあ、センセイと同じだ。私も!」と共感してほしいなあ。そうしたら、私も嬉しいのに。

    どう答えても喜んでもらえないのがわかってて、それでも大人だからちゃんと答えようと思うけど、けっこう大変なのです。

    でも人生まだ7、8年。で、しっかりおしゃべりできて、こんな迅速なやりとりをする女の子、それもまたすごい才能です。


    2年生「2段ゆらゆら迷路」。おもしろい発想ですね。